ねむいね、くま先生

思考の遠心分離

青春の熱量

何か出来ないことがあるとすぐ才能が無いとか、向いてないとか、不器用だから、と自己防衛の理由をつい探してしまう。確かに向いてないことがあるのは明白だし、才能なんて有限で微小だ。でも結局は才能のせいにしたり不器用なせいにしたりして結局何もやろうとしてないんだなと思う。不器用なせいにすれば未熟な自分を守れて、努力しないことを肯定してくれる。向いてないと言えばやらなきゃいけないことが満足に出来なくても仕方ないと思える。才能が無いことにしてしまえばやりたいことにも諦めもつく。挑戦すればきっと味わうであろう苦い挫折に傷付かなくて済む。

 

年齢を重ねると自分が越えることのできるハードルの高さを冷静に分析することが出来る(その思考力は経験がもたらす恩恵の1つだと思う)。だから微妙なラインのハードルは越えようとさえしない。着地に失敗したら怪我をしてしまう。歳をとると傷の治りも遅くなる。

 

挑戦しないことは別に悪いことじゃ無い。自分で考えて選択した結果なら尊いものであるはずだと思う。でも、悪いことじゃないはずなのに、心の中で何かがくすぶってしまうのはどうしてだろう。

 

いくつになっても挑戦の連続!という日本人が好きそうな紋切り型の思想に毒されてるせいかもしれない。何事も諦めずに頑張ろう、結果よりも過程だよ、といった無責任な言葉は耳触りがよくて、誰かのためを思う言葉は口にするだけで気持ちよくなれるからタチが悪い。応援それ自体が甘美なコンテンツ化していると思う。普段接することのない第三者に対してでも優しさを持てる自分を再確認して安堵する、その自分に酔ってるのは、感動のインフレで安売りされたケーキの形をした甘い疑似餌に群がる蟻と大して変わらない。でもやっぱり誰かを応援するということが美しく見えるのは、何かに挑戦している人が美しいからで、何かに挑戦すること、それ自体に価値があることだからだと思う。

 

青年期を過ぎると新しく何を始めるきっかけも無ければ、その体力も無い。何かに挑戦し続ける熱量を維持することも困難だ。でも清々しく諦めることさえ難しくなる。自分の人生を正解にするためにムキになる。過去を正当化するために挑戦しなくなる。だからこそ出来ないことは何かしらの理由をつけて排除しようとする。手に届く範囲だけのモノで自分を満足させようとする。でもそうやって自分の人生を自分で決めてしまって、本当に幸せなんだろうか?

ぼくは別に人生何歳になっても挑戦だ、とかは思わない。人それぞれペースがあるし、それを美徳とするにはあまりにも乱暴だと思う。穏やかな幸せを手にしているなら新しい不安因子でそれを脅かす必要もない。

でもやっぱり、新しく挑戦することは楽しい。いままで生きてきて自分のことわかっているつもりでいたけど、何かに挑戦するたびに知らない自分に出会えることが素直に嬉しい。挫折があろうとも、限界を知ることになろうとも、誰かと競い合って生きているわけじゃないし、別にそれでもいいやと思える。結局、ぼくは賢明な人生を生きることは出来ないだろうけれど、無難な人生を送るくらいならずっと失敗しながらでも楽しく生きたい。自分の人生が歴史になるには早過ぎる。

 

新しいことを始めるには熱量が足りない。いつでも青春の熱量を思い出せたらいいのに、とも思う。でも年齢を重ねることの唯一の利点は成熟することではなくて、いつでも無邪気な少年時代に、熱い気持ちを持った青春時代に戻れることだと思う。年をとって身体のキズは治りにくくなったけど、心の怪我の治し方は昔よりたくさん覚えてきたはず。それが大人、挫折の1つや2つ、大したことない。