ねむいね、くま先生

思考の遠心分離

育み

冬に聴きたいスクリャービン 

 

クラシックを聴く人でもあまり耳にする機会のないロシアの作曲家スクリャービンの作品から、ピアノソナタをいくつか紹介したいと思います◎

スクリャービンを理解するのに必要な5単語

・飛翔

・官能的な悦び

・倦怠

・星の煌めき

・燃ゆる太陽

何となく想像出来るかと思うのですが、スクリャービンはとてもえっちです。今回はそのえっち度も5点満点で合わせて紹介します。

 

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ピアノソナタ第2番

初期のスクリャービンショパンのピアニズムを継承しており、その端々に溢れるロマンチシズムを感じることができます。茫洋とした海を漂う第1楽章の夢想感はスクリャービンの中でも特に幻想的です。このソナタは2楽章しかなく、その終楽章はショパンの同じくピアノソナタ第2番の終楽章に極めて似ていて、嵐のように過ぎ去ります(ちなみにスクリャービンピアノソナタ第1番は、ショパンソナタ2番と同じく葬送行進曲があります)。この頃はまだスクリャービンらしさは息を潜めていますが、太陽の光を反射する波の動的な表情は恍惚としており仄かなえっちさを感じます。

評価:えっち度2★★☆☆☆

総評:きらめく波飛沫ってえっちだね

 

ピアノソナタ第3番

ドランマティコと名の付く第1楽章、要はドラマティックのような意味なのですが、その劇的な展開に息をのみます。

特筆すべきは第3楽章、とてもとても美しくえっちです!星が歌う、とスクリャービンが言ったように、夜空を見上げ孤独に耽る、そんなえっちさがあります。

終楽章もかっこよく、fis-mollらしい決然とした、非常にバランスのとれたソナタになっています。クライマックスは第3楽章のテーマが再現され、星の煌めきに包まれ輝かしい瞬間を迎えます。

評価:えっち度5★★★★★

総評:お耽美なえっちさに病みつき

 

ピアノソナタ第4番

スクリャービンソナタの中で唯一の長調と明記されたソナタ。序奏的な第1楽章と躍動感ある第2楽章からなりますが、その第1楽章がめちゃめちゃえっち!!もう1音目からえっち。その次のバスの移りもえっちだしその後の4度の跳躍もえっち!これぞスクリャービンらしさ、と言わんばかりの怒涛の静的恍惚が押し寄せます。そもそもFis-durって輝かしくもベールがかかっていてすごくえっちなんですよね(スクリャービンはfis大好き)。第2楽章は終始幸せに満ちています。はぁ〜こんな生活してみたい。活きて生きると書いて生活なんですよね。この曲もソナタ第3番と同じく第1楽章のテーマがコーダで再現されます。その輝きは燃ゆる太陽となってどこまでも飛翔していきます。は〜えっち。

評価:えっち度8★★★★★★★★

総評:めざそう健康的なえっちさ

 

ピアノソナタ第5番

スクリャービン中期の幕開けを飾るこの作品、もう調性がありません。冒頭のトリルと上昇音形を飛翔・高揚のモチーフにし、その後やってくる倦怠、すべてがえっち、性的です。もう結尾なんて宇宙の彼方へいっちゃってます。こんなにも恍惚とした表情を音楽に出来るなんて、スクリャービン天才ですかね?連綿と続く生の営みとめくるめく官能的な悦び、やるせなさと心地よい疲れをはらんだ倦怠感、幾度となく湧き上がる生への衝動、渇望する爆発的なエネルギー、そういった生そのものの神秘性、、"自身"そのものに忠実で無防備な姿でいること、官能的な悦びに身を任せることの自然さ、ポジティブなまでにありありとそのすべてを描いたこの曲を聴いたあなたはスクリャービンの扉を開いてしまいましたね。ちょっと難解だけど聴きやすい名曲です◎

評価:えっち度10★★★★★★★★★★

総評:えっちさの化身

 

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えっち度5点満点のつもりが第4番の時点でメーター振り切ってしまいました。それくらいなんです、スクリャービン

 

☆まとめ

・爽やかなえっちさが欲しいあなたには…ピアノソナタ第2番!

・耽美なえっちさが欲しいあなたには…ピアノソナタ第3番!

・健やかで幸せなえっちさが欲しいあなたには…ピアノソナタ第4番!

・性的欲求にまみれたいあなたには…ピアノソナタ第5番!

 

(ちなみに個人的には第4番が好きです。幸せいっぱいのえっち、って感じです。好き〜!)

 

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頭のおかしいブログになりました。

 

 

 

青春の熱量

何か出来ないことがあるとすぐ才能が無いとか、向いてないとか、不器用だから、と自己防衛の理由をつい探してしまう。確かに向いてないことがあるのは明白だし、才能なんて有限で微小だ。でも結局は才能のせいにしたり不器用なせいにしたりして結局何もやろうとしてないんだなと思う。不器用なせいにすれば未熟な自分を守れて、努力しないことを肯定してくれる。向いてないと言えばやらなきゃいけないことが満足に出来なくても仕方ないと思える。才能が無いことにしてしまえばやりたいことにも諦めもつく。挑戦すればきっと味わうであろう苦い挫折に傷付かなくて済む。

 

年齢を重ねると自分が越えることのできるハードルの高さを冷静に分析することが出来る(その思考力は経験がもたらす恩恵の1つだと思う)。だから微妙なラインのハードルは越えようとさえしない。着地に失敗したら怪我をしてしまう。歳をとると傷の治りも遅くなる。

 

挑戦しないことは別に悪いことじゃ無い。自分で考えて選択した結果なら尊いものであるはずだと思う。でも、悪いことじゃないはずなのに、心の中で何かがくすぶってしまうのはどうしてだろう。

 

いくつになっても挑戦の連続!という日本人が好きそうな紋切り型の思想に毒されてるせいかもしれない。何事も諦めずに頑張ろう、結果よりも過程だよ、といった無責任な言葉は耳触りがよくて、誰かのためを思う言葉は口にするだけで気持ちよくなれるからタチが悪い。応援それ自体が甘美なコンテンツ化していると思う。普段接することのない第三者に対してでも優しさを持てる自分を再確認して安堵する、その自分に酔ってるのは、感動のインフレで安売りされたケーキの形をした甘い疑似餌に群がる蟻と大して変わらない。でもやっぱり誰かを応援するということが美しく見えるのは、何かに挑戦している人が美しいからで、何かに挑戦すること、それ自体に価値があることだからだと思う。

 

青年期を過ぎると新しく何を始めるきっかけも無ければ、その体力も無い。何かに挑戦し続ける熱量を維持することも困難だ。でも清々しく諦めることさえ難しくなる。自分の人生を正解にするためにムキになる。過去を正当化するために挑戦しなくなる。だからこそ出来ないことは何かしらの理由をつけて排除しようとする。手に届く範囲だけのモノで自分を満足させようとする。でもそうやって自分の人生を自分で決めてしまって、本当に幸せなんだろうか?

ぼくは別に人生何歳になっても挑戦だ、とかは思わない。人それぞれペースがあるし、それを美徳とするにはあまりにも乱暴だと思う。穏やかな幸せを手にしているなら新しい不安因子でそれを脅かす必要もない。

でもやっぱり、新しく挑戦することは楽しい。いままで生きてきて自分のことわかっているつもりでいたけど、何かに挑戦するたびに知らない自分に出会えることが素直に嬉しい。挫折があろうとも、限界を知ることになろうとも、誰かと競い合って生きているわけじゃないし、別にそれでもいいやと思える。結局、ぼくは賢明な人生を生きることは出来ないだろうけれど、無難な人生を送るくらいならずっと失敗しながらでも楽しく生きたい。自分の人生が歴史になるには早過ぎる。

 

新しいことを始めるには熱量が足りない。いつでも青春の熱量を思い出せたらいいのに、とも思う。でも年齢を重ねることの唯一の利点は成熟することではなくて、いつでも無邪気な少年時代に、熱い気持ちを持った青春時代に戻れることだと思う。年をとって身体のキズは治りにくくなったけど、心の怪我の治し方は昔よりたくさん覚えてきたはず。それが大人、挫折の1つや2つ、大したことない。

 

 

猫になったら

猫になったら、1日中ごろごろして過ごしたい。暖かい部屋の中で床に寝転がってぼーっとしていたいし、窓から見える景色の些細な変化をじーっと見ていたい。たまには外に出て散歩もしてみたい。アスファルトの道路のど真ん中で寝そべって、通ろうとする車を困らせてみたい。何か1つのものを追いかけることに夢中になりたいし、眠くなったら好きなだけ寝たい。少し寂しくなって構って欲しくなったら甘えたいし、飽きたらその好意をそのままに我慢させたい。めんどくさいことは嫌いだ。いつだって自分の思うままに生きてみたい。少々のわがままだって、かわいいから無条件で許される。そんなことを思いながら、ぼくは猫になることはなく26歳になりました。こんばんは。

 

いやはや、もう26歳です…26歳ってもっとしっかりしていると思ってました。が、それは自身の大人像の揺らぎによって年々変化していくことなので気にしません。どうせ27歳になるときも同じこと思うし。割愛。

 

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何だかこの1年は自分に足りないものを必死に追いかけていたような気がしていて、何かを取り返したいと思っていたけれど、結局特に変わることも無かったのかな、と今は思います。(少しは変わったと思うけど。)こうなりたい、と思うのは自身を向上させるために必要なことだし、素敵だなあと思うんですが、目指した先が自分の属性に向いているかは別の話で。ぼくの場合、多数ある向いてないことを何とか向いているものにしようと苦心していた気がします。短所だらけなので(歩く社会の不良債権)。でも憧れは自らの良さを殺しかねないし、エゴの範疇を超えることは無いのかなと。必要なのはこうなりたくないという反面教師像で、というのは自身の成熟の1つの指針になりうるし、それを避けることさえできれば嫌な自分にはならない。自分が今持っているもので生き抜く覚悟、その潔さ(ある種の諦め)がないと、本当に魅力的な人にはなれないんだろうなと思います。日々の言動を省みて是正していけば、間違いなく理想の自分に近付けるし、誠実ささえあれば大丈夫な気がしています。生まれてきてからこれまでに獲得してきた良さを磨いて持ち合わせで勝負する、それを賢明と呼ぶのでしょうか。数少ない自分の良さをきちんと理解して大事にしていきたいですね。そうすることが交換不可な自分になるための唯一のサルベイション。

 

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モーツァルトクラリネット協奏曲みたいな人いいよなあ…って思っていましたが、あんなに穏やかで明るい大人にはなれないので、諦めてシューマンの3つのロマンスみたいな人になりたいです。笑

 

というわけで最近はこの音源にはまっています。

・3つのロマンス/シューマン

オーボエってクラリネットみたいに器用でも無ければ万人受けするまろやかな音色でもない、けれど制約が多い(音域が狭いなど)故の魅力がたくさんあるなあと思います。いつか吹いてみたい。

 

シューマンってオーボエに素敵なメロディいくつか書いてるんですよね。その最たる例がこのピアノ協奏曲です。

・ピアノ協奏曲/シューマン

冒頭のオーボエで演奏されるメロディ(C-H-A音型:シューマンの愛したクララに因んだ素敵なレトリック)が何とも絶品…。このメロディを吹くためにオーボエ初めました。それくらい好きです。

 

 

今年はシューマンの作品をいくつか演奏する機会がありそうなので嬉しいです。またそのうち紹介します。

 

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今年もたくさんの人と会ったり、いろんなところに旅行してみたいです。音楽も続けていきます。よろしくお願いします。

 

夏の作用

気付けば7月も終盤戦、積乱雲のように濛々と膨らむ倦怠感も何処吹く風、不真面目なゼリーみたいにどっちつかずな、なあなあとした態度で日々過ごしております。

ブログを書こうと思いつつ、ここ最近は飽和した熱気で神経回路網(主に言語野のそれ)がショートしておりました。お久しぶりです。

 

この半月に何かあったかといえば何もなく、所詮程度の問題、取るに足らない諸問題を脳という舌の上で転がしては撫で回し、すっかりお馴染みの満たされなさに溜飲を下げ、全ては7月上旬の記憶とともに忘却の彼方、夏のフォルダは上書きされることもなく勝手に消えていくばかりですが、まあそれなりに元気でやっています。

 

みなさん三連休はどこか行かれたりしたのでしょうか。僕は家でずっとレモン味の飴を舐めていたので舌がピリピリして痛いです。レモンスカッシュ感覚。

休日を沼にしがちな僕ですが、先の連休もその例に漏れず、沼職人としての責務を全うした結果、3日間ほぼ籠城し1人遊びに終始するという試合展開となりました。惨敗。

 

誰かとごはん行きたいなと思ってラインを開けども友達の数22、気軽に誘える友達の数がそれ以下なのはもちろん自明、誘う勇気が出ないまま1人カフェでだらだらして1日潰すという、25歳の夏とは思えない消極性、白桃みたいに熟しきった甘い性格は、切り過ぎた前髪みたいにどうしようもないけれど、このままじゃやばいという危機感だけがつもりつもって積乱雲、内心どしゃ降り、人生空振り、という感じなんですけれども、それでも夏の陽射しに元気をもらう事幾分か、短パンとかはいちゃって、今日もカフェまで来てブログ書いているわけです。

 

あー友達ほしいなー。インスタとか見てるとみんな楽しそうなわけです。同年代の知り合いとか、いろんなところ行って夏っぽいことしてて。僕は友達も少なければ行動力も無いんですけど、夏ばかりは外に出て遊んだりしたい。温泉行ったり、花火大会行ったりしてみたい。

 

こんなこと思ってしまうのは夏のせいでしょうか。副作用が怖い。